必死に戦い猛タックルで失神しても手を離さなかった不屈の闘志
1934年関東で始まったフットボールは関西ではまず関大が1935年に創部しアメリカと関係の深い同志社でもとの声が高まり38年~39年学校の許可を受け専門部でチーム編成し東京の運動部店より用具を購入1940年関西で2番目の米式蹴球部が創部。岡崎公園のグラウンドで練習を開始、ヘルメットに防具を着けて走り格闘する異様な練習風景は市民を驚かせた。記念すべき創部試合は4月関大グラウンドで関大の胸を借り一方的ゲームで破れたが最後迄必死に戦い猛タックルで失神しても手を離さなかった不屈の闘志は70年前の創部試合に既に今日の伝統の元を作ったのである。
多くの選手は二度と帰る事なく、若い尊い生命が空に海に山に散る
続いて慶應と花園で第1回の交歓試合を行ないこれが縁で慶應の好意で山中湖畔のグランドで夏季合宿を実施、慶應沖コーチに指導を受け練習に励んだ結果その成果を試合で着々と実感する事ができた。しかし日米関係は悪化し敵性スポーツと見なされ鎧球部と名称が改められた。41年関学大に鎧球部誕生、これで3大学となりこれに関西OBチームを加え4チームのリーグ戦が出来る体制となったが日米開戦機運濃くなりチーム編成以来の二世コーチや選手がフットボールソングに送られ日米交換船でハワイに去って行った。夏期合宿を奈良吉野で実施、早朝吉野神社に駆け足で参拝、軍隊式で行なったが国防婦人会に白眼視され学内でも敵性スポーツの筆頭に上げられ退部者も多くなった。
そして12月8日日米開戦“学徒よ一兵に徹すべし"の声に選手はボールを銃に持ち変えて戦場に去って行った。同じ状況の3大学は協議し残留選手でチームを編成し敵性スポーツを代表して学生スポーツの根性を見せようと闘球の盛んな海軍航空隊を回り紅白戦を行ない、また闘球の対戦をした。闘球とはルールもなくボールを敵陣にトライする為には殴る蹴るの手段を選ばぬ無茶なゲームでこれを海軍は闘争精神の権化であると推奨しており学校当局も闘球をするのなら許可すると言う有様だった。この様な活動を続けるうちに戦況は益々苛烈となり43年10月に体育会各部と同様に部活動を廃止し、グラウンドの闘志をそのまま戦場へ、多くの選手は二度と帰る事なく、若い尊い生命が空に海に山に散って逝ったのである。
